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第5章~バブル経済の隆盛と崩壊、そしてマルチメディア社会の到来~ 昭和60年代~平成8年

 

昭和48年のオイルショックに端を発するエネルギー危機の昭和50代を乗り越え、日本経済、世界経済は新しいパラダイムを迎えつつあった。 

通信の発達によって、世界の経済は、為替相場・証券市場を通じて相互に影響しあい、日本は常に世界の変化と共に生きていかざるを得ない時代になった。 

日本国内は、表面的には、円高不況、バブル経済の隆盛と崩壊と、かってない好不況を繰り返したが、その一方で、マルチメディア社会への変質が確実に進んでいった10年であった。 

秋葉原も、その変化の最前線としてかってない変化を遂げた。 

そのような激動の時代を振り返ろう。 

 

【日本全体/家電市場の昭和60年代(経済編)】

昭和50年代後半から、高度成長期に産業の中心であった、石油化学・鉄鋼などの素材産業はエネルギーコストの上昇と、省エネルギー化の推進による需要減退、さたに途上国の追い上げにより急速に衰退し、エレクトロニクスを中心とした加工業、あるいはソフト産業が台頭した。

半導体技術の進歩により、IC(集積回路)の集積度が飛躍的に向上し、小型化が急速に進むとともに価格が安くなり、そのIC技術によって、産業(工業)部門では、工作機械が高性能化し、NC工作機・産業用ロボット、CAD/CAMなどが登場し、工場に一大革命をもたらし、加工精度の向上・省エネ・省力・生産工程の合理化が進んだ。

また、事務部門でもOA(オフィスオートメーション)化が進み、ワードプロセッサー・パーソナルコンピュータ・ファクシミリの導入などが急激に進み、省力化・事務合理化を進めた。

そのように、産業構造の転換を進めていた日本に再度大きな衝撃が走った。

円高である。

昭和60年(1985年)9月22日にニューヨーク・プラザホテルで開かれた「先進五カ国蔵相会議(G5)」は、「ドル以外の主要通貨の対ドルレートの秩序ある調整が望ましい」と発表。

その日を境に、ドル高の修正が始まり、円は240円代から、昭和60年末には200円、昭和61年に150円代、昭和63年には120円代と、わずか2年で円の価値は2倍になった。

輸出企業にとっては、ドル建ての金額が2倍になるわけであるから、国際競争力を失いかねない。

当時の政府と民間企業は、一丸となって、「グローバリゼーション」「内需シフト」を合言葉に、円高対策を講じた。

企業は、「グローバリゼーション」を合言葉に海外生産を拡大し、内需を拡大するために新市場開発・新商品開発を行い、政府は史上最低の公定歩合による低金利政策と、緊急財政支出を計上し、内需拡大に努めた。 

結果的に、この円高対策がバブル経済をもたらし、一時期、日本の繁栄が永久に続くかと思わせたが、平成になり、そのバブルの崩壊とともに栄華が終了し、長く今日まで不況が続くことになる。

その一方で、パソコンの急激な高機能化・通信インフラの飛躍的向上により、情報社会が現実のものとなり始める。

「マルチメディア」というキーワードとともに、パソコン・携帯端末・ネットワーク機器が続々開発され、インターネットの登場で、マルチメディア社会のイメージが、ようやくおぼろげながら見えてくるようになった。

日本経済のみならず、世界は農業革命・産業革命につぐ第の革命の時代に突入していく。 

秋葉原も、長い歴史の中で、もっとも激動の10年を展開することになる。 

 

【秋葉原の昭和60年代~平成年(その1~AVと情報家電の街へ)】

昭和50年代後半から、カラーテレビにかわって、家電市場の柱になたのはビデオであった。

世帯普及率は、昭和59年:18.7%から、昭和62年:43.0%、平成年:63.7%、平成3年71.5%と急拡大する。

また、大画面テレビの登場もこのころである。

平成4年で30.5%の家庭が29インチ以上の大画面テレビになっていた。

普及期になってからのパナソニックの「画王」のCMが記憶に新しい。

当時、大画面・高画質のAVは家庭のあこがれであった。

また、ワープロが、高機能化・低価格化し、東芝ルポ・シャープ書院・NEC文豪・パナソニックU1シリーズ等が店頭を賑わせた。

電話機端末の自由化と共に、留守番電話が市場で人気を集め、コードレス電話の登場と共に、秋葉原の店頭を占めた。

さらに、昭和57年(1982年)に開発されたCDが、市場拡大期を迎え、団塊ジュニア世代が中学に入学する昭和60年以降は「ミニコンポ」に標準搭載され、留守番電話機能を内蔵した「中森明菜のパイオニア・プライベート」や、CIを展開してイメージを高めたKENWOOD等が人気を集めた。

一方、家庭内の電化製品では、高級化・大型化が進み、大型冷蔵庫・大容量の洗濯機・ランドリーセット、高級電子レンジなどへの買い替えが進み、バブル経済の隆盛と共に大型・高額の家電製品が飛ぶように売れるようになる。 

このような時代背景のなか、昭和60年代初頭から、秋葉原は「AVと情報家電」の街へと急速に変わっていった。 

 

【秋葉原の昭和60年代~平成8年(その2~家電不況とバブルの崩壊・秋葉原バッシング)】

昭和60年代に入っても、繁栄を続けた秋葉原ではあったが、その一方で黒い影が忍び寄っていた。

日本の流通業の進展の中で、家電量販店でチェーン展開する量販店が昭和50年代後半~昭和60年代に急増した。

内需振興を唱える低金利政策と、NTT株放出を含め、株式市場の充実が資金調達を容易にし、関東近隣へ多くの家電チェーン店が出店してきた。

また、ディスカウントストアが台頭し、新宿・池袋・渋谷にカメラルートのディスカウントストアが濫立し、若者のファッションタウンの集客力を生かし急成長した

自動車の普及も、秋葉原には「逆風」となった。

即日持ち帰れるという魅力と、駐車場無料という魅力で、「自動車で郊外の家電量販店・ディスカウントストアで買い物を済ます、わざわざ秋葉原にまで行かない」という層が増加した。

さらに、宅配便などの物流システムが急成長したため、冷蔵庫・洗濯機などの大型家電製品の配送も、秋葉原以外のお店で買っても、配送までのスピード・コストに差が無くなり、秋葉原の魅力の低下が囁かれた。

秋葉原電気街振興会では、そのような環境変化を先取りし、平成11月に60万部の「世界最大級タウン情報誌・AKガゼット」を発刊、平成6年冬まで年3回発行

Dラジカセ・ミニコンポフェア/エアコンフェアなど各種キャンペーンを展開し、活性化に努めた。

各店舗も、パソコンショップの展開・雑貨感覚の販売店の開設、ソフト・ゲームの店舗を展開するなど、消費者のニーズを先取りした店舗展開をし、集客力の向上を目指した。 

オイルショックにも、円高不況にも負けず、成長を続けた家電業界であったが、AVブームと高級家電のブームの反動で、家電業界はバブル経済の崩壊よりやや早く、平成年には「家電不況」に突入する。

そして、その不況のシンボルとして、秋葉原の集客力の低下がマスコミでも囁かれるようになり、平成5年、老舗のヒロセムセン、シントクが閉店した時点でピークを極めた。

いずれの両店も、それぞれ事業展開選択肢として、家電小売業から撤退したわけだが、シンボリックな出来事として、マスコミは大騒ぎをした。

しかし、そのようなマスコミの報道とは裏腹に、昭和50年代に起こったマイコン・パソコンのうねりは、大きく花開こうとしていた

 

【秋葉原の昭和60年代~平成8年(その3~マルチメディアの新しい街)】

昭和59年(1984年)アップル社マッキントッシュ発売、平成2年(1990年)は、日本IBMが基本OSのDOS/Vを発表、マイクロソフト社はWindows3.0を発表し、現在のパソコンブームの下地ができあがる。

秋葉原では、従来からマックを扱っていたT-ZONE、98のメッカ NEC Bit-INNなどマニアが集まっていた空間に加え、平成2年(1990年)4月に「ラオックス・ザ・コンピュータ館」がオープン、秋葉原に進出してきたソフマップが平成5年(1993年)6月に初めて中央通りに面したショップ(総合アミューズメント館)を出店と、現在のマルチメディア街に変貌する新しい波が起こっていた。

平成6年(1994年)には、秋葉原電気街の売上がパソコン関係家電関係を上回り(帝国データバンク調べ)、パソコン街へと大きく変容する。

そして、平成7年(1995年)11月の「Windows95」の発売日のお祭り騒ぎによって、秋葉原は「マルチメディア最先端の街」として、再び、名をとどろかすことになる。

そして昨今は、携帯電話・PHSの端末販売拠点として、あるいはインターネットや、パソコン通信の加入のためのネットワークサービス申し込みの拠点として、秋葉原はさらに新しい顔を作りつつある。 

 

【秋葉原の昭和60年代~平成年(その4~未来へ向けて)】

現在秋葉原には、中央市場跡地の再開発と、JR敷地の再開発計画、そして常磐新線の始発駅として秋葉原駅の再開発と、街を大きく変容させるビックプロジェクトがめじろ押しである。

今後10年間で秋葉原はますます大きな変化を遂げるであろう。