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第4章~家電全盛期とパソコン黎明期~ 昭和50年代

【日本全体/家電市場の昭和50年代(経済編)】 

昭和50年代は、昭和48年に始まる第一次オイルショック、昭和54年の第二次オイルショックと、エネルギー危機を経て、環境問題も含めて、地球の資源が有限であることを強く認識し、低成長へ移行する「節約・省エネルギー」の10年であった。 

「不確実性の時代」という言葉が語られ、ロッキード事件での田中元首相の逮捕、長島・王などのスーパースターの引退など、世相的には、低迷した10年間であった 

その一方で、家電業界に限って見れば、昭和50年代初頭は、逆に耐久消費財への支出が年平均6.7%(昭和50年昭和53年)増と、同時期の消費支出平均の1.4%増に比べると著しく伸びている。

この原因は、

エネルギー危機を通じて物価が上昇する中、家電製品は「物価の優等生」と呼ばれ価格が安定し、割安感が出た。

普及率が高い製品の買い替え需要が、昭和48年~昭和49年のオイルショックで起こった買い控えの分が顕在化した。

急激ではないがルームクーラー(普及率:昭和5119.5%→昭和5949.3%)ふとん乾燥機(普及率:昭和536.2%→昭和5918.7%)ビデオ(普及率:昭和531.3%→昭和5918.7%)と新製品が生まれた。

昭和50年頃から爆発的に売れ始めたシステムコンポやラジカセ、昭和54年に発売され、世界の音楽文化に影響した「ウォークマン」、あるいは、従来白ばかりだった

洗濯機・冷蔵庫などがカラー化され、若者・ニューファミリーのライフスタイルを反映した新しい商品が生まれ、家電市場を引っ張った。

昭和53年には、「インベーダーゲーム」が爆発的に流行し、YMOの活躍とともに、街中に「ピコピコ」という電子音が流れた。

現在のゲーム市場の隆盛へとスタートを切ることになる。

昭和57年にはニューメディアブームが起こり、マイコンとともにキャップテン・CATVが脚光を集めるが、社会を大きく変革するには及ばず、現在のマルチメディアの時代まで雌伏の時代を過ごすことになる。

また、昭和58年には、ビデオの年間生産台数が、カラーテレビを越え、昭和60年代のAV・大画面テレビの爆発的ヒットへと繋がっていく。

その一方で、日本国内のモータリゼーションが進み、自動車の年間国内販売台数は500万台を越え、車は一家に1台以上の普及を見せるようになる。

昭和45年にケンタッキーフライドチキン、昭和46年にマクドナルド、ミスタードーナツ、昭和49年にデニーズと上陸した外食産業の発展と、チェーンストア方式が郊外で急成長を見せはじめ、郊外ロードサイドにショッピングセンターが姿を見せ始めるのも昭和50年代である。 

 

【秋葉原の昭和50年代(その1~完成する街並み)】

昭和46年昭和47年に、田中角栄首相が唱えた「日本列島改造論」による日本中の開発ブームは、土地の高騰をもたらし、昭和45年以降、秋葉原を初め、日本中の商業集積地は、高騰化した土地の生産性を高めるために、高層ビルを建築し、商業空間の拡大に努めた。

秋葉原でも、昭和47月にラジオ会館の残り2/3が完成したのち、続々と高層ビルが立ち並び、ほぼ現在の街並みが50年代前半に完成した。

また、「秋葉原」と呼ばれるエリアが膨張しはじめ、日本通運裏から神田寺のあたりに部品商を中心とする小売り・卸し・メーカーが誕生。

ワシントンホテルの開業とほぼ同時期に、ニュー千代田ビルが建てられ、さらに第一家庭電器・丸善無線電機があいついてビルを建て、このあたり一体を「マイコン・パソコン」エリアへと変化させた。

昭和通り側にも輸出を中心とした部品商社の設立も相次いだ。

販売面積の拡大と、魅力的な家電製品の登場で、石油ショックの影響もほとんど受けず秋葉原の「成長神話」は昭和50年代に入っても続いていった。 

 

【秋葉原の昭和50年代(その2~マイコン・電子部品の誕生)】

昭和52年に、アメリカでビットパソコン・アップル・が発売され、インテルの8086など16ビットのマイクロプロセッサが登場すると、昭和54年前後で秋葉原でもコンピュータを扱うお店が増え始めた。

トランジスタから、ICLSIへと変化する中、秋葉原は電子部品の中枢としての顔も持ち始めた。

日本第号のマイコンショップが、昭和51年ラジオ会館2Fに「NEC Bit INN東京」が開かれた。

同会館だけでなく、神田川沿いに、真光無線のオールマイコンビル(ニュー千代田ビル)・ロケット本店のマイコン売り場、田中電気の東芝パソコンフロアなど新しいエリアが広がった。

昭和57年にはサトームセンをはじめ1ケ月に6店舗も開店し、昭和57年昭和58年には、異端児扱いされたマイコンビジネスがようやく認知された。

また、ジャンクショップも生まれ始めた。

昭和48年に国際ラジオ(非会員)、昭和49年に秋月電子(非会員)が廣瀬無線裏にジャンク(解体品)ショップを開き、秋葉原のもう一つの顔である

ジャンクショップが成長したのも昭和50年代であった。

現在のパソコン・マルチメディアの業界で活躍するビジネスマンの多くが、この時代に秋葉原の各マイコンショップで、キーボードを叩いた記憶があるに違いない。

まさに、現在のマルチメディア社会の萌芽が昭和50年代の秋葉原にあった。 

 

【秋葉原の昭和50年代(その3~国際化の急進)】

日本のメーカーの技術力が世界に追い付いた昭和40年代以後、日本の家電製品は世界中で人気が高まった。

Made In Japan」が品質の証の時代となり、日本へ観光・ビジネスで訪れる外国人は、お土産に日本の家電製品(ラジオ・ウォークマン・ステレオなど)を購入するために秋葉原で買い物するようになった。

そのようなお客様のために秋葉原では「ヂューティーフリー(免税)店」を持つお店が増え、昭和57年頃にはラオックス、廣瀬無線、ヤマギワ・西川無線、オノデン、山本無線など約15店が、免税店・免税フロアを設けた。

もともと、秋葉原はメーカーや販売店の看板や電飾、独特の看板・店頭展示のポップなどで、賑やかな町であったが、外国人向けの告知・看板、あるいは店頭の外国人の店員さんが増えるようになり、ますます無国籍の不思議な空間になっていった。

日本の家電メーカーの世界中での活躍とともに、「AKIHABARA」は世界的にも有名な街になっていった。 

 

【秋葉原の昭和50年代(その4~秋葉原電気街振興会の設立)】

秋葉原の発展とともに、共同宣伝・通りの美化・安全、町全体でのお客様へのサービスの改善、バッタ屋など不良店舗と優良小売店との差別化など、町全体の対策を期待されるようになった。

「秋葉原電気街振興会」が設立されたのが、昭和54である。

翌年、昭和55年から「秋葉原電気まつり」が開催され、単独の商店街最大のキャンペーンが今日まで続けられている。