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第2章~高度成長と家電ブーム~ 昭和30年代

昭和30年代は、日本が急激に豊かになっていく時代である。 

それは、各家庭に「モノ」が行き渡っていく時代であり、明るい電灯がともされた居間で家族そろってテレビを見る、新築の団地に入居する、マイカーを手にいれる、そういう物質的充足が目標となり、その充足が幸福感を満たす、ある意味で幸せな時代であった。

この時代の秋葉原の歴史を振り返る場合、また、日本全体の昭和30年代の歴史を振り返ることで、より分かりやすくなるので、まず、日本全体の昭和30年代を振り返ろう。

 

【日本全体の昭和30年代】

昭和30年の国民生活白書の名文句「もはや戦後ではない」という言葉に象徴されるように、昭和30年代は新しい「成長」の時代であった。
(1)昭和34年皇太子御成婚

(2)昭和35年池田内閣「所得倍増計画」発表

(3)昭和39年東京オリンピック開催

華々しい成長を続け、途中不景気はあったものの昭和31年神武景気、昭和34~昭和36年の岩戸景気を中心に、めざましい発展を遂げた。 

国民総生産では(昭和45年価格に換算)昭和30年に17兆円だったものが、昭和40年には41兆円に達し、10年間で2.4倍、年率9.2%という奇蹟の成長を成し遂げた。

当時の景気は、イノベーション(技術確信:新製品の開発、新生産方式の導入、新販路の開拓、新原料の獲得、新組織の実現)による、生産設備への投資が、あたらしい消費需要を喚起し、またそれが投資を呼ぶというサイクルを繰り返し、プラスチック製品などの合成樹脂製品、テレビ洗濯機冷蔵庫、車などの耐久消費財、さらにはインスタントラーメンなど、まさに消費革命といわれるくらいに変化していった。

その一方で、臨海地帯の工業地帯化による公害等の社会問題も、昭和30年代に起り始めている。

また、「フラフープ」「ダッコちゃん」など、消費社会特有のブームも生まれ、日本は急速に豊かになっていく。

テレビでは、「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などのアメリカのホームドラマが、「家電のある生活」を伝え、「夢であいましょう」や「シャボン玉ホリディ」などの人気番組が生まれたのもこの頃である。

植木等の「スーダラ節」が歌われ、レコード大賞が創設され、歌謡曲が広まっていくのもこの時代である。

昭和31年には太陽族、慎太郎刈りが流行し、昭和33年にはロカビリーが大流行、昭和34年にはカミナリ族、昭和39年にハミユキ族と、若者文化を「族」文化としてとらえだしたのも昭和30年代の特徴であった。

また、昭和30年代前半はプロレスの力道山が活躍し、街頭テレビに人々が群がった。

また、昭和30年代後半プロ野球では、長島が活躍し、大相撲では大鵬が活躍した。

そのような流行と豊かさが生み出され、そしてあらゆる豊かさの象徴が「家電製品」であった。

 

【家電業界/秋葉原の昭和30年代】

昭和30年代は、ある意味で「家電」の10年と言っても過言ではない。

人々は、「家電製品」を買い、そして「家電生活」を楽しむために、毎日働いたといってもいい時代であった。

昭和30年代に「三種の神器」と言われた、白黒テレビ電気洗濯機電気冷蔵庫の普及率は、昭和32年当時、それぞれ、7.8%、20.2%、2.8%であったが、昭和40年には、それぞれ、95.0%、78.1%、68.7%と急速に普及していった

また、昭和30年には東京通信工業(現ソニー)がトランジスタラジオを発売。

世帯普及率は昭和35年24.9%が、40年に55.8%と大衆化していった。

さらに昭和35になると、カラーテレビ、クーラー、ステレオが加わり、ラジオはFMラジオに、洗濯機は脱水装置付洗濯機、冷蔵庫は冷凍庫付冷蔵庫を商品開発が進み、買い換え需要とともに更なる発展を見せた。

昭和30年代後半は、オーディオ専業メーカーが急成長し、「スピーカー専業のパイオニア、高周波コイルのトリオ、トランス専業の山水、ラジオセットメーカーのオンキョー」というブランドが、オーディオマニアの間で語られるようになった。

一般消費者にとっては、魅力ある商品が溢れる昭和30年代であったが、家電業界では、流通秩序が混乱し、再整理されていく、10年であった。

昭和27~昭和28年以後の家電ブームで、家電メーカーは続々生産を拡大したが、昭和32年になると過剰生産に陥り、新しい販路として、農協・職域団体のほか、他業界に販路を求めた。

当時新しく台頭してきたスーパーの店頭にも家電製品が置かれるようになった。

それまでの家電製品は、おおむね、メーカー→卸商→小売り(電気店)のルートで販売されており、新たなルートによる販売は、乱売合戦を生み、地方の電気店などは、死活問題であった。

メーカーは、昭和31年に家庭電器市場安定協議会(市安協)を結成し、8月に「市場安定8項目」という実施要領を作り、価格安定を目指したが、翌年、秋葉原の一部小売販売店に一部メーカーが出荷停止処分を行ったことに対して、公正取引委員会がその出荷停止処分中止の勧告文と意見書を提出した。

その結果、流通秩序をメーカー主導で確立していくことが困難になった。

当時の秋葉原は、卸商を営む、廣瀬商会、角田無線電機、山際電気商会、石丸電気が、全国的にも有名で、「秋葉原は安い」という情報を発信し、秋葉原近隣には、小売り専業で、商売を始める会社も増え、活況を呈していく。

その一方で、秋葉原で卸と、小売りを併売することでの矛盾(他地域の小売店から、目の敵にされる場合もあった)と、メーカーの営業戦略(小売店からクレームが出る「卸」機能を、メーカーの直販体制に移行することで解決しようとした)もあり、業界の良化と経営の向上を目指し、メーカーと販売店で、共同出資の販売会社を設立し、卸部門と、小売部門を分離する方向に向かった。

そして、昭和36年になると、農村部での不況が全国的に広まり、疲弊した地方の電気店は、苦境に陥るところが目立ち始めた。

その結果、卸商も、その余波を受けるリスクが高まり、ますます、小売り専業の道を歩む販売店が増えていった。

秋葉原はそのような混乱の中でも、着実に成長を重ね、昭和37年には初めての高層ビルとして現在のラジオ会館ビルが建設される。 

家電卸と小売りが分離する中、家電業界にも流通革命が押し寄せるだろうと判断した大型店経営者は、昭和38年朝日無線(現ラオックス)の谷口正治社長(当時)を中心として、NEBA(日本電気専門大型店協会)の前身である、「全日本電器大店経営研究会」を発足させ、佐藤無線、山際電気なども加入して、業界の発展に貢献した

昭和30年代を通じ、過剰生産と廉売合戦をもたらす構造を内在しながら、家電業界は大きく成長していくのであった。

その中で秋葉原はリーダーとしての先駆的な取組を行いながら、消費者に支持され、成長を続けていった。